パリの砂漠、東京の蜃気楼(金原ひとみ)

少し前に金原ひとみのインタビューを読んでいて、小学生の時から死にたかったし母となり子を持った今でもその感情はかわらない、というようなことを言っていた。

度々彼女の小説を手にしているが、恐らくは彼女自身が投影されているであろう登場人物の評に共感できるところもありながら、その救いの求め方(人生の主題に恋愛が置かれているところ)に相容れなさを感じる。

金原ひとみ文学賞に対するコメントが簡潔ですごい、みたいなまとめの中で「パリの砂漠、東京の蜃気楼」を知った。彼女が日常でどんな風に痛みを感じているのかが描かれていると紹介されていた。


わたしは単純にその本が、その本に著された思想が自分とどんな点で共通であってどんな点で断絶しているのかだけに着目する。この本に於いては、世間の幸せをそれと受け取ることができずにいる人間が他にもいることは救いだったし、そこから助かる方法を自分は持っていないと何度目かの自覚に到ることは苦痛だ(彼女は恋愛と音楽と小説を書くことによって生かされている)。

好きなアーティストのライブに初めて行けた時、既にしっかり毎日希死念慮を確認する日々だったのだけど、アンコールまで聴き終わって幸せを感じると共に湧き上がった感情は「確実に幸せな今苦痛無く死んでしまいたい」だった。自分にとって音楽や、それに類する芸術といったものは救いになっても生きていく糧にならない。

恋愛。私も好きと言われれば嬉しいのだけどそれを自分の価値として認めることはできない。好きと言われたって理解するように努めてもらったって、途方もない断絶感に襲われて関係を保っていることそのものが申し訳なくなる。自分にはあなたが私を理解できたと思うそのプロセスが全くもって理解できない。分からなくていいから、分からないそのことそのものを認めてもらえれば楽なのかもしれない。

金原ひとみは本作やかつて読んだインタビューの中で、夫との相容れなさを綴っていた。互いの間の険しい壁を確かめているようだと。自分も相容れなさを受け容れて、互いに融け合うことのない一個一個の人格として立ち続けることが出来れば良かった(クラウドガールに書いてあったのはこういうことなんだろう)。

急いで死ぬほどに追い詰められているとは思えない。しかし明らかな不幸もないのにじわじわ死に向かっていくだけの生き方の中で、生きる糧にするほどの何か、金原ひとみにとっての小説、恋愛、音楽のようなものが私には見つからない。死なないで生きていくほどの理由もない。所謂自死を選ばないまでも、このまま年老いて死んだとき、それは長い時間をかけた自殺と何が違うんだろう。